2021年3月25日木曜日

崋山の田原 3/19

上々の夜明け.
ホテルの自動車に送られて菜の花畑.
こういうところは、腰をすえて愛でるのがいちばんのようで.
バス停まで10分と聞いたが意外に遠い. 2kmはありましたね.
運転手に、ハウスたくさんあるけど何を作ってるんですか.
「花、いろんな菊、菊の出荷は日本一なんですよ」.
田舎のバスは話がはずむ.
「お客さんどこから」. 大阪. 「僕奈良にいました、天理大学ですわ」
ほどなく豊橋鉄道「三河田原駅前」.
駅前食堂でうな丼をとって、できのいいイラストマップを手に渡辺崋山.
池の原公園
公園の奥に銅像. 横に「崋山幽居跡」の看板
渡辺崋山. 多才である.
まずは画家
本名登より画号崋山で通る.教科書にも載っている.なんでも鑑定団にも登場してますね.
政治家としても名を成した.
藩主の覚えめでたく39歳で家老になるや、藩政改革を挙行.
天保の大飢饉には領内一人の死者も出さなかった.
唯一の藩として幕府から表彰されたことは田原藩の誇りであったろう.
彼が作った「報民倉」は今も田原市の備蓄倉庫の名に残る.
そして蘭学者. これが彼の命を縮めることになった.
「蛮学社中」.西洋ずきの集まるサロンといったら良いだろうか.
外国からの開国圧力の強まる中、侃侃諤諤.時には過激な議論もあったであろう.
幕府目付け鳥居耀蔵が目をつけた. 出世欲に燃えた根っからの西洋嫌いである.
密偵を送り込み言葉の端々をつなぎ合わせ、陰謀事件をでっち上げる.
「蛮社の獄」.
蟄居を命ぜられ、2年後自刃. 49歳の生涯を終えた.
銅像の向かいに蟄居時の家が復元されていた.
質素な家だ. 蟄居のために用意されたのだろう
のち息子の小崋も家老になって家名を保ったが、墓の建立を許されたのはずっと後の事と聞く.
中央大きいのが崋山左に小崋.
池の原会館.
茶席が開いていて、ほっと一息.
城跡を巡って豊鉄「三河田原駅」.
豊橋からJRこだま号.
新車の匂いがした.
ひがし大阪線に事故があって、ひさしぶりに東淀川駅から帰る.
膝に痛みを抱えたのとアキレス腱リハビリとの二人旅.けっこうな疲労感.

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