2019年4月17日水曜日

造幣局通り抜け 4/15

通り抜け今日まで、 意外に空いていた.

千里香.
初めて花の香りをかぐ.
桜餅の美味しそうな匂い.
遅咲きだろう、蕾も残り今が盛り.

鬱金.

九重桜.


今年の桜大手毬は黒山の人だった.

2019年4月16日火曜日

長篠城・設楽が原 4/10

宿の車に送られて長篠城.10:00. 
長篠城址史跡保存館. この辺り二の丸跡か.

城主奥平貞昌21才、攻める勝頼30才. 家康34才、信長42才.

資料館から本丸跡を望む.

北西から流れる寒狭川と北東から流れる宇連川の三角州.
要害というが北はすかすかの台地. しかも山に向かっている.

すかすかでは守れまい.
このような堀を何重にも構えていたのだろう.

にしても勝頼、この城を13,000で囲んでどうして落とせなかったのか.
城兵わずか800. 

勝頼の本陣へ向かう.

医王山. 頂上に物見櫓が見える.
雨で登るのをやめたが城内はおそらく一望のもとであったろう.

攻めあぐねている間に織田徳川連合軍35,000現わる.
押すか引くか軍議を重ねた「医王寺」.

3倍近い敵を前に勝頼はなぜ引かなかったのか.
「嫡子が育つまでの相続」と信玄に釘を刺された諏訪四郎.
決戦を決意して本陣を医王山から設楽原へ移す. 
我々も後を追う.

道中に馬場信春の墓.62才最年長.

R151を西へ.

うろうろしたが、ちょうどこのあたりと思える丘の墓地を本陣趾と決めた.
降りてゆくと「武田勝頼戦地本陣」.やっぱりな. 

勝頼さらに西に移動..

土屋昌次20才. 最年少.
落ち行く勝頼を見送っての討ち死にと伝う.

尾根を二つばかり越えて勝頼最後の本陣趾.
碑には観戦地とある. 

蓮吾川柳田橋.
柳田激戦地の碑. 当時、橋はなかったであろう.
両軍この川を挟んで対峙し戦線は南北2kmにわたった.
武田は3軍に分けて猛攻撃をかけたようである.
単純計算で1軍3,000.対10,000.


織田徳川連合軍の馬防柵が復元されていた.
蓮吾川まで50mほど. 当時の鉄砲の有効射程50mとものの本.
この柵を3段に構えたという.

蓮吾川沿いに南へ. 1kmほど先に家康本陣.
一面の湿地で武田騎馬隊思うにまかせなかったと言われる.

家康本陣趾.

竹広決戦場.
家康本陣の目の前である.
恩師辻田先生の合戦記には3段目の柵も突破して家康を慌てさせたとある.
だが押しても押しても新手が湧いてくる.
それは分かっていたはずなのに、勝頼いずこに勝機を見たのか.
「勝てる」.留守を守る家臣に宛てた書状が残ると、ものの本.

あしたに兵を揃えること1万3千、ゆうべに兵散りてわずか60.
勝頼主従北へ落ち行く.ときに天正3年5月21日.

三河東郷駅.16:40. 

豊橋からひかり521号新大阪17:26.
鳳来寺のあとは551蓬莱.
・もののほん:長篠合戦の資料学(金子拓)

2019年4月14日日曜日

鳳来寺 4/9

今日は飯田線の旅.

左に中央アルプス.

右に南アルプスを仰ぐ高原列車.

宿から迎えがあって今日は楽勝と思っていたら.

「明日は雨ですよ、今日のうちに登っておかれたら」
いまから1425段.15:30.

この先殺生を禁ず. 頼朝公である

ほどなく仁王門.225段.



傘すぎ. 枝が傘の骨の様に張っているのを名付けたのだろう.
樹齢800年の大木である.

登る.

ひたすら登る.

1316段の本堂を横目に登る.

豪雨被害だろう、参道が半分崩れていた.

奥の院. つきましたね1425段.

登り始めて45分.

あらためて本堂にお参りは閉門寸前だった.16:20.

東照宮へ. こちらは家光公である.

 またまた階段. 数え損なった.

東照宮.

ここまでと思ったが、これは拝殿で奥に立派な本殿があったと知った. 
そうだよね三大東照宮の一つだもんね.

本道に戻って下り1316段.

ひたすら下る.


仁王門が見えて.

下山.17:20.

雲龍荘なかなかの構えである.

玄関正面.

抹茶の接待.

長篠合戦図屏風.
明日はこれだ.

部屋極上.

こういうところもあるのだ. 浴衣の裾.

仙醸「やまむろ」
高遠山室産ひとごこち100%とある.

後味の良い辛口.なかなかうまい.