長篠城址史跡保存館. この辺り二の丸跡か.
城主奥平貞昌21才、攻める勝頼30才. 家康34才、信長42才.
資料館から本丸跡を望む.
北西から流れる寒狭川と北東から流れる宇連川の三角州.
要害というが北はすかすかの台地. しかも山に向かっている.
すかすかでは守れまい.
このような堀を何重にも構えていたのだろう.
にしても勝頼、この城を13,000で囲んでどうして落とせなかったのか.
城兵わずか800.
医王山. 頂上に物見櫓が見える.
雨で登るのをやめたが城内はおそらく一望のもとであったろう.
攻めあぐねている間に織田徳川連合軍35,000現わる.
押すか引くか軍議を重ねた「医王寺」.
3倍近い敵を前に勝頼はなぜ引かなかったのか.
「嫡子が育つまでの相続」と信玄に釘を刺された諏訪四郎.
決戦を決意して本陣を医王山から設楽原へ移す.
我々も後を追う.
道中に馬場信春の墓.62才最年長.
R151を西へ.
うろうろしたが、ちょうどこのあたりと思える丘の墓地を本陣趾と決めた.
降りてゆくと「武田勝頼戦地本陣」.やっぱりな.
勝頼さらに西に移動..
落ち行く勝頼を見送っての討ち死にと伝う.
尾根を二つばかり越えて勝頼最後の本陣趾.
碑には観戦地とある.
蓮吾川柳田橋.
柳田激戦地の碑. 当時、橋はなかったであろう.
両軍この川を挟んで対峙し戦線は南北2kmにわたった.
武田は3軍に分けて猛攻撃をかけたようである.
単純計算で1軍3,000.対10,000.
武田は3軍に分けて猛攻撃をかけたようである.
単純計算で1軍3,000.対10,000.
蓮吾川まで50mほど. 当時の鉄砲の有効射程50mとものの本.
この柵を3段に構えたという.
蓮吾川沿いに南へ. 1kmほど先に家康本陣.
一面の湿地で武田騎馬隊思うにまかせなかったと言われる.
家康本陣趾.
竹広決戦場.
家康本陣の目の前である.
恩師辻田先生の合戦記には3段目の柵も突破して家康を慌てさせたとある.
だが押しても押しても新手が湧いてくる.
それは分かっていたはずなのに、勝頼いずこに勝機を見たのか.
「勝てる」.留守を守る家臣に宛てた書状が残ると、ものの本.
あしたに兵を揃えること1万3千、ゆうべに兵散りてわずか60.
勝頼主従北へ落ち行く.ときに天正3年5月21日.
三河東郷駅.16:40.
豊橋からひかり521号新大阪17:26.
鳳来寺のあとは551蓬莱.
・もののほん:長篠合戦の資料学(金子拓)
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